どーも、冨安です。
今まで、あまり思想、政治や歴史の話は興味がなくて、そういう類の本もそこまで読んだことがありませんでした。
ただ去年くらいから世界史に興味を持ち始めまして、歴史って面白いな!
と発見しました!
ただどうにも思想的な話は、全く分からなかったんですよね。
リベラルとか保守派とか右とか左とか、政治的な話は苦手です。
小難しくて。
ただ最近、適当に読んでいた本が自分の中で、色々とリンクしてきて、少しは分かるようになってきた気がします!
上記の本は、ジャーナリストの佐々木俊尚さんの「21世紀の自由論」という本。
本書は例えば、格差、原発の問題、憲法改正の問題などの現在の社会が抱えている問題に対して
どんな立ち位置の人が、どんな考え方をしているのか?
さらにそれぞれの立場にどんな問題があり、
ではどうやって諸問題を乗り越えて、これからの社会をつくっていこうか?
というテーマです。
これだけ読んでも、いまいち頭に入ってこなかったと思うのですが、
以前、読んでいた上記2冊に共通するものがあり、
難しい政治の話も、自分の中で何も分からない状態からは、少し腑に落ちてきました。
こういうテーマって、日本人は自分の考え方を言わない、または話し合ったりしない、
空気感があるような気がしまして、僕もこういうテーマを同世代とかと話すことはほとんどないです。
例えば、政治的な話などで自分の考え方を皆さまはお持ちでしょうか?
僕は「よく分からない」で誤魔化してた類の人間ですねー。
たまにはしっかり考えて、アウトプットしてみようと思います。
信じれる「大きな物語」がない今の日本。
グローバル化している現在の社会では、貧困や格差などが広がり、
社会不安は大きく広がっています。
そうした現代の問題は、「大きな物語」がないこと。
「大きな物語」については「世界史の極意」から。
- 「大きな物語」とは、社会全体で共有できるような価値や思想の体系のこと。「長い一九世紀」の時代であれば、「人類は無限に進歩する」とか「民主主義や科学技術の発展が人々を幸せにする」というお話が「大きな物語」です。
例えば、戦後の日本は、「経済成長」が「大きな物語」に当てはまると思います。
右肩上がりの経済成長を前提にした「年功序列」や「終身雇用」というシステム、
老後は退職金がっぽりもらって、年金生活みたいな。
これが戦後からバブルが弾けるくらいまでの「大きな物語」に当てはまると思います。
海外だったら、「大きな物語」は宗教が強いのかもしれません。
例えば何かあれば、神様が助けてくれる!というような。
大きな物語がなくなったら、どうなっちゃうの?
「経済成長」という大きな物語は完全に消え去ったのが、今現在、僕らが生きている世の中だと思います。
老後は何も保障されてないし、
大企業入っていればOKということもなくなりました。
資本主義がグローバル化すると、何が起きるのでしょうか?
こちらも「世界史の極意」から。
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帝国主義の時代には、資本主義がグローバル化していくため、国内では貧困や格差拡大という現象が現れます。富や権力の偏在がもたらす社会不安や精神の空洞化は、社会的な紐帯を解体し、砂粒のような個人の孤立化をもたらします。そこで国家は、ナショナリズムによって人びとの統合を図ることになります。
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その結果、何が起きたか。排外主義的な書籍やヘイトスピーチの氾濫です。
-
序章でも述べたとおり、その結果、いまや貧困かつ粗雑な歴史観が跋扈し、それがヘイトスピーチや極端な自国至上史観として現れています。
「経済成長」という信じれる物語がなくなり、
格差や貧困が広がる結果として、ヘイトスピーチなどの極端なことが氾濫します。
ではなぜ、日本でヘイトスピーチみたいな極端なことが氾濫するのでしょうか?
- 私の世代以降の日本の知識人は、「大きな物語」の批判ばかりを繰り返し、「大きな物語」をつくる作業を怠ってきてしまいました。
- 人間は本質的に物語を好みます。ですから、知識人が「大きな物語」をつくって提示しなければ、その間隙をグロテスクな物語が埋めてしまうのです。
なぜ知識人は、「大きな物語」をつくる作業を怠ってしまったのでしょうか?
1955年から始まった、自民党の「55年体制」が大きく関係しています。
佐々木俊尚さんの「21世紀の自由論」より
- 総中流の構造に、メディア空間も引きずられた。安定している社会を支えているのは、 自民党であり、財界であり、官僚である。つまり官僚と企業と政府自民党という三位一体が日本の総中流社会を支えるという堅固な基盤があり、そこでメディアや野党の側が何ができるかというと、「反権力」という監視役としての役割でしかなかった。
- 強者対弱者というような、非常にわかりやすい水戸黄門的な勧善懲悪の構図が色濃く抽出されていた。
- しかし政治的・思想的な対立軸がこのような安易な勧善懲悪では、有効な議論はできない。なぜなら勧善懲悪では、市民やメディアが一方的な善になってしまい、しかしその善であるという思想的な背景は何もないからだ。単に反権力であるということでしか担保されていないのである。では反権力の側が政権を握り、責任を負ったらどうなるのか? ということは誰も考えなかった。
「国家権力」や「経済成長」という大きな物語を批判ばかりして、それに変わる政治的な考え方も具体策もなかったこと。
メディアも機能していなかったこと。
それはメディアの野党も「反権力」の立ち位置しかなったから。だった。
教育も関係していると思います。
このような状況で、1955年からの55年体制で進み、
誰も明確に進むべき道を示すことができないのが、今の日本なのかなと思います。
そして生まれる、個人が生きる小さな物語
格差が助長して、雇用の安定がなくなり
より自己責任で生きていくことが求められるようになります。
ある意味で、自由。
個人の自由や福祉を重要だとみなす、「リベラリズム」という考え方。
「経済成長」という大きな物語の中で、みんなで頑張ろう!
→→→
自身が、自分らしく生きていこう、
という「小さな物語」の中で自由に、生きていく流れに変わってきます。
ただこの「小さな物語」も自由なようで、責任が伴うし、大きな不安も付き物。
佐々木俊尚さんの「21世紀の自由論」より。
人生はつらい。ままならないことが多い。無理に選択をしても、失敗に終わることはあ る。
いや、失敗に終わることの方が多いかもしれない。その時に自由であるがゆえの自己責任を問われるよりは、神に責任を負ってもらう方がどれだけ楽なことか。
それでも無理に選択を迫られると、自由な選択などできない人たちは、結果的には他者とのつながりを求めて、他者と同じようなものを選び取ってしまうことになる。
そしてこれは社会の多様性を失わせ、みんな同じにしてしまう。リベラリズムは社会の多様性を求めていたはずなのに、自由への圧力によって多様性が失われるという、なんとも不思議なジレンマが起きてしまう。
僕も公務員辞めて、自由な立場でチャレンジしてるけど、ホント今後どうなるか分からないです。
ワンピースやNARUTOは、主人公みたいに、なりたくてもなれない多くの人を描写して
多くの人にとって、理想像なのかもしれませんね。
それで人気なのかな。
主人公が、夢に向かって、より自分らしく突き進んで、自己実現をしていく!
みたいなテーマですよね。
地元で仲良く!コミュニタリアニズム。
自由、というのは実際にはリスクや責任を伴い、いざ自由になるとどうすればいいか分からなくなったりします。
リベラリズムは、本当は存在しない「普遍的なもの」「理想的な個人」を目指した。でも近代ヨーロッパが衰退して、普遍の幻想は崩壊している。「普遍的なもの」がないのに自由な選択だけを求められることは、不安しか招かない。だから二十一世紀にリベラリズ ムは成り立たない。
そうした中で、古き良き時代の日本。
貨幣でのみ繋がった都会的繋がり→田舎的な繋がり
「コミュニタリアニズム」という考え方が広がります。
幻想の「理想の個人」ではなく、小さな共同体のみんなが善く生きられるような社会を目指した方が現実的なのではないだろうか。コミュニタリアニズムはそういう考え方をとる。
マイルドヤンキーと言われる層などそうかと思います。
地元で仲良くやっていこう!みたいな。
「コミュニタリアニズム」は排他的になりがち、という問題を抱えています。
- コミュニタリアニズムや保守は、普遍や理想ではなく、古くからの歴史や伝統や共同体に価値を見いだし、共同体に参加することに価値があると考えた。
- でもこれは内と外のあいだに壁をつくって、外側を排除してしまう。「参加を求める」というのは、「参加できない人は排除する」という論理とつながっているのだ。
実際に、僕自身も地方に住んでみて、大なり小なり排他的な部分はあると感じています。
でもグローバル空間では、そんなローカルルールも少しづつ揺さぶられます。
「日本人」での記載。
- 圧倒的な〈他者〉がいなければ社会はグローバル空間にはならず、ひとびとはローカルルールにしがみつこうとする。これが、日本社会がなかなか変われない理由だ
- しかしいま、ローカルな共同体は周辺から侵食され、揺れ動いている。政治や行政・会社などの旧来の組織が機能不全を起こすことで日本社会を覆う伽藍に亀裂が走り、あちこちにバザール空間が開けていく。
- 個人にとっても国家にとっても、そこがグローバル空間であるならば、ローカルな正義をいくら主張しても勝ち目はない。自らの利益を守ろうとするのなら、リベラルデモクラシーの土俵で相手と対等に議論しなければならない
バザール空間は、開放空間を意味します。
対局にあるのが、閉鎖空間。
組織によりけりですが、大企業や役所は、その組織ならではの文化があり、閉鎖空間なのかなと思います。
- 「自己表現度」の高い国はすべて英語圏(アングロサクソン国)と北欧などヨーロッパのプロテスタント圏だ。これらの国は、自由と自己責任が一体となった〝バザールの論理〟で社会が営まれている。それに対して日本は責任のとれない社会(無責任社会)で、そのことが自由に生きることを阻んでいる。
そして、これからの時代はどうなる??
市場原理でグローバル化が進めば、ローカルルールは揺さぶられ
格差や貧富の差は広がります。
より自己責任で生きていくことが求められるのかなと思います。
ただ人間、そんな市場原理だけでなく感情で揺れ動く世界。
佐々木俊尚さんの「21世紀の自由論」では
「優しいリアリズム」
という方向性が提案されています。
- 人間社会は「理」や「論」だけで動いているわけではない。強い論理が社会の原理として駆動する裏側では、情が地層の奥深くを流れていて、つまりは論理と情が表裏一体となっている。
- いま日本にはグローバリゼーションという極めつけの論理が押し寄せ、「情」をどこで確保すればいいのかがわからなくなっている。この結果、一方には強い論理があって論理だけで押し通す世界と、ひたすら「情」に頼り切り、ノスタルジーや自分の皮膚感覚だけを根拠に非論理的な言説を打ち出す世界に二分されてしまっている。
- 正義を訴えて戦っている者たちも左右の両極端にいるが、その両極端に与することは何の利益ももたらさない。両極端に目を奪われることなく、そのあいだの中間領域のグレー の部分を引き受けて、グレーをマネジメントすること。その際、人々の感情や不安、喜びを決して忘れないこと。これこそが優しいリアリズムである。
「生存は保証されていないが、自由」と「自由ではないが、生存は保証されている」のどちらを選択する?
「21世紀の自由論」の中の問いです。
極端な問いではあるのですが、皆さまだったらどっちをとりますか?
今はIT技術の進化で、個人でも稼ぐ手段は多様化していると思います。
僕は完全に、前者で
「生存は保証されていないが、自由」
を選択しました。
実際には、かなりリスキーな状況です。
最悪、餓死することはない、
と思っていて、死ななければ、危機的な状況になっても再生はできるはずだと考えています笑。
グローバル化した世界は、格差は生み出しますが、ローカルな空間よりも
「フラットな世界」
だと思います。
自分が実績を出せれば、可能性は切り開けるし。
実力がなければ、消えていくだけだし。
この「フラットな世界」で自分どれだけやれるのかなー?ってチャレンジしてみたいとは思いますね。
実力がなくて負けるならしょうがないので、それは受け入れることができます。
ただ腑に落ちない組織のローカルルールだとかは、あまり受け入れることができません。
という感じで、どちらかといえばドライかもしれません。
皆さまはいかがでしょうか?
さて、
上記3冊から、僕の頭の中にあるごちゃごちゃしたものを整理してみたけど・・、相変わらずごちゃごちゃしている感じです・・。
僕自身これまで、こうした政治的な話は自分の考え方はそこまで持っていなくて、なんでかってそういう機会が全然なくて
ビックリするくらい政治的なテーマを考えたり話し合う機会が日本はないのかもしれません。
とりあえず自分なりに考えたことからアウトプットしてみようと思います。